没後30年。
見た目のこわもてと比べて、実は、梶原一騎(1936年9月4日~1987年1月21日)の「血中乙女ロマン濃度」は、驚くほど高かったのではないかと気づく、いまのわたくしなのであ~る。
吉屋信子の 「母もの」 をホワイトホールとすれば、その逆の吐き出し口であるブラックホールとは、梶原が「父性」に仮託した俗にいう「スポーツど根性ドラマ」といえるかも知れない。
そんな中、梶原は「あしたのジョー」の中で、自身の「血中乙女ロマン濃度」を上げながら、矢吹丈をめぐるふたりの女を「悲恋」に導くのだ。
そのひとりが、林紀子、紀(のり)ちゃんだ。
彼女の実家は、林商店(食料品店)である。丈と同じ少年鑑別所に入っていた西寛一(丹下ジムでは丈の先輩格で、マンモス西)は、出所後、この店で働くことになる。
そして、力石徹の死後、丈にボクシングをやめさせようとした紀ちゃんの思いは、結局、丈には通じず、彼への秘めた思いを断ち切りながら、彼女は西と結婚し、林紀子から西紀子になるのである。
西との結婚式での丈のスピーチが終わったあとの紀ちゃんのこの表情はこわい。
何かを大きく諦め、そして何かを深く決意する冷たい女の顔である。
ちばてつやの画力は、まさにこの時がピークだ。原作者としての梶原(この作品では、高森朝雄。以下、高森と記す。)は、おそらくこの表情までは指定していなかっただろうと思う。
この作品で、高森の中にあるロマンチストとしての資質は、少女漫画家あがりだったちばの絵によって「血中乙女ロマン濃度」を上昇させ、見事に花開くことになる。
そして、高森は、この紀ちゃんに、少女ならではの胸が張り裂けそうな青春論を語らせるのである。
それにしても、一体、この驚くばかりの繊細な乙女心の描写は何なのだ。
私見だが、高森自身の中に流れている「血中乙女ロマン」が作用しているとしか考えられない。
すなわち、これが、高森の中にある “おネエの思考” で展開される彼の作家的資質の開花なのである。
嗚呼(ああ)、このふたりの距離の取り方は絶妙だ。当時のちばの画家としての力量(原作の読み込み能力)の高さを物語っている。
そして、この青春論は、同じ高森作品である「巨人の星」(こちらの原作は、梶原一騎名義)でも、星飛雄馬によって展開されるのだが、悲しいかな川崎のぼるの絵柄では暑苦しくなるばかりで、いささかも昇華し切れていないのだ。
ところで、紀ちゃんが、男の世界であるボクシングの現場に足を踏み入れたシーンはわずかだがある。
しかし、結局、そこに彼女の居場所はなかったのである。
そして、もうひとりのヒロインが、女だてらに男の世界であるボクシング興行を自らのビジネスとして選んだ白木財閥の令嬢にして白木ジム会長の
白木葉子だ。
力石徹の死後、丈を立ち直らせる手段として、紀ちゃんが丈にボクシングをやめさせようとしたのとは反対に、葉子はプロモーターとしてカーロス・リベラ戦を組むのである。
そして、高森は、この作品の最後に葉子にこう告白させるのである。
キャラが原作者を追い詰めるのか。それとも、原作者がキャラを追い詰めるのか。
いずれにしても、話の “流れ” というか “勢い” というのは恐ろしい。そして、何よりも、話をそうさせる時代の “流れ” というか “勢い” が恐ろしいのだ。
ところで、葉子は、いまでいうキャリアウーマンのはしりである。
彼女が丈への思いを口にして女心をさらしたあと、冷徹な実業家(プロモーター)としての彼女のキャリアにどのような変化があったのか。
そんなことに、ボクは一切興味がない。
なぜなら、ボクの関心は、結局、紀ちゃんにしかないからね。
それに、富士額(ふじびたい)の女はボクは好きくないからさ~。
というわけで、何やら勇んで書き始めたこの論考も、最後は尻切れトンボで終わってしまうのだが、しかし、これでいいのだ。
ただ、これだけはいい切れる。
梶原一騎は、漫画で恋愛論、青春論を展開出来た昭和の大ロマン派の作家だが、さすがの手塚治虫もこのマネは出来なかったということだ。
じゃ、またね、ブラザー!!