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1968年、少年漫画界のクロスロードに立っていた男、永井豪。そして、石川賢のこと。

 いまから60年前 (1958年) の少年漫画は、いま読むと、スピード感というかテンポが遅過ぎて、とてもじゃないけど読むに堪えない。

 177.png1959年に創刊された 「週刊少年サンデー」 と 「週刊少年マガジン」

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 たとえそれが、手塚治虫の作品だったとしてもだ。
 というより、当時の少年漫画の最先端の技法であった〝手塚漫画〟の限界がそこに露呈されているのである。

 177.png少年クラブ連載 「旋風Z」 1957年1月号
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 そして、そこから10年を経た、いまから50年前 (1968年) の少年漫画はどうだったかというと、そのスピード感、テンポ、いや、何よりセンスという点で、断然、いまに通用するものがある。
 そうなのだ、漫画は、センスなのである。

 1968年、月刊少年漫画誌の衰退期にあって、断末魔の 「月刊少年 」(光文社)  が、劇画の導入でテコ入れを図ったころの様子は、108.pngすでに述べたとおりである
 週刊少年漫画誌でいえば、1966年、 「週刊少年マガジン」 が177.png劇画家さいとう・たかを起用し177.png 「サイレント・ワールド」 連載の連載を開始し、他誌に先がけて劇画路線化を進め、やがてそれが 「無用ノ介」 (1967年~1970年 ) の連載へとつながっていくのである。

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 当時の少年漫画界は、手塚治虫、石ノ森章太郎、横山光輝、藤子不二雄といった正統派の少年漫画家 (その頃は、児童漫画家と呼ばれていた) と劇画家が、少年漫画誌上で交錯しており、そのクロスロードに立っていた男こそ、石ノ森章太郎のアシスタントを努めた177.png永井豪であり、彼の出世作である 125.png「ハレンチ学園」 だったということに、先日、ふと、気づかされたのだった。

 驚くべきことに、 「ハレンチ学園」 が示すセンスは、いま見ても十分に新しい。
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 ということは、この50年間、永井豪のつくった漫画(少年漫画、青年漫画)の文法・文体 は、いまだに更新されないまま今日 (こんにち) に至っているということを意味しているのである。
 残念ながら、われわれは、現在のところ、次の50年の漫画の文法・文体を担う男の出現には立ち会えていない。
 だからこそ、永井豪が、漫画界の革新者 (イノベーター) であったことに気づかされるのである。
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 ちなみに、1968年にあって、その当時、やはり中堅少年漫画家であった桑田次郎は、この絵を見る限りでは、まだその画力を維持していると思える。

 177.png「豹マン」 連載第1回 1968年 (昭和43年) 「ぼくら」 新年号付録・新書判 全68頁

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 しかし、3年後の1971年、週刊少年マガジンで連載されていた 177.png「カワリ大いに笑う!」 (1971年39号から1972年9号まで連載。原作:牛 次郎) では、全盛期のシャープな描線から発せられる、一種神がかった絵のセンスは失われ、もうすっかり “型落ち” した彼の絵を目にしたボクは、子ども心に桑田次郎は 「終わった」 と感じたのである。
 作品全体がひどく古臭いものに変わってしまったのだった。

 177.png週刊少年マガジン1971年 (昭和46年) 39号 「カワリ大いに笑う!」 (新連載)
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 さて、177.png石川賢である。
 悲しいことに、ボクは、永井豪の右腕だったこの男の 108.png「学園番外地 (少年画報連載 1969年9月8日号~1970年9月22日号) 」 という作品にいままで出会える機会にめぐまれなかった。

 177.png少年画報 1969年 11月10日号

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 後年の気色の悪い石川の画風には嫌悪感しかないのだが、この頃の絵柄には、いまだに強く惹かれる新鮮さを感じるのだ。
 作家としての初々しさと可能性に、何だかわくわくして、血が騒ぐのである。
 何かの縁でこの作品に触れる機会があったら、ボクはこの作品を 「新作」 としてう読むことだろう。
 50年前、177.pngこの男も、確実にクロスロードに立っていたのである。

 177.png少年画報 1970年7月28日号 15号
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by misaochan3x7 | 2018-10-14 21:06 | まんが道(みち) | Comments(0)

「少年プラズマ戦隊」とわたくし。

 1966年。
 この年、「月刊 冒険王」(秋田書店)に短期連載されたのが、松本あきら(のちに零士に改名)の「少年プラズマ戦隊」(1966年1月号付録~6月号まで)である。
 この時、わたくしは8歳(小3)で、人生のピークを迎えていたのだった。

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 この作品のことは、時々、持病がぶりかえしたように思い出し、その都度、何事かを2度ほど書き連ねてきたのだが( 1度目2度目 )、3度目の持病がぶり返した先日、ネットを漁ってたいたら、「月刊 チャンピオンRED 2016年 12月号」と、「月刊 チャンピオンRED 2017年 1月号」(秋田書店)に、この作品が〝特別付録〟として1冊ずつ付けられていたことに気づく。
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 この「チャンピオンRED 2016年 12月号」の発売は、おそらく2016年11月、そして、「チャンピオンRED 2017年 1月号」の発売は、おそらく2016年12月だと思われるが、単行本未収録である「少年プラズマ戦隊」という、松本ファン垂涎の作品の復刻というこの一大事にまったく気づかずにいたこの時の自分は、一体どこで何をしていたのか!!
 うおぉぉぉおおおおおおおーーーっつ!!
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 まったくもって不覚、痛恨の極みである。

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 そして、小3のわたくしは、写真上の右側の付録(1966年1月号付録)の表紙を鉛筆で模写し、丁寧に色鉛筆で着色したことをきのうのことのように思い出す。
 その模写はとっくにこの世からは消えてしまってもうどこにもないのだが、わたくしの脳内には、いまも鮮明な画像となって残っているのである。
 模写したその紙は、銀行員だった父親が、当時、わたくしの模写のために職場から持ち帰ってくれた使い古しの勤め先の銀行の広告チラシの裏だったっけ。

 もし、タイムマシンがあって、あの日に帰ることができるなら、この作品を読み直しながら、いまは消失してしまったこの付録の表紙の自分の模写にもう一度会いたいと思うのである。
 南~無~。

177.pngPS.
 ネットで見つけた「少年プラズマ戦隊」最終回が掲載された「月刊 冒険王」(1966年6月号)の表紙と最終回の表紙を、リンクが切れる前にアーカイブしておこう。

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 【掲載作品】
  貝塚ひろし「秘密戦隊ハリケーン」
  さいとう・たかを「0011ナポレオン・ソロ」
  森田拳次「ズーズーC」
  つのだじろう「ライバル左腕」
  久松文雄「0088ワイルドウエスト」
  石森章太郎「009大あばれとんま天狗」
  森田拳次「まんがスクール」
  山本輝也+光瀬龍「SF劇場5 アメーバ作戦 後編」読切読物
  板井れんたろう「アキレ太くん」
  白土三平「白土三平名作劇場 妙活」新連載
  岸本おさむ「国際秘密指令00X」最終回連作読切
  関谷ひさし「ジャジャ馬球団」最終回
  松本あきら「少年プラズマ戦隊」最終回
  スタジオ・ゼロ「レインボー戦隊ロビン」予告
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by misaochan3x7 | 2018-08-24 13:34 | まんが道(みち) | Comments(0)

この国は「漫画」でできている サライ 2018年9月号

【2018年8月10日(金)】

 朝、職場に向かう通勤途中の地下道にある「メルシー」売店の前をなにげに通過しようとしたところ、雑誌売り場の棚の中に置かれた雑誌と雑誌の間から「カムイ外伝」のカムイの顔を発見!!

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 その雑誌を引き抜くと、174.pngサライ 2018年9月号(小学館)だった。
 デューク東郷(ゴルゴ13)のアップの顔と黄色い表紙の絶妙かつヴィヴィッドなマッチングに心惹かれ、中身も見ずに速攻購入。
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 あとでページを開いてみたら、目次には、『この国は「漫画」でできている』とあり。
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 そのと~り!!
 ピアノ売ってちょ~だぁ~い!!
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 125.pngタケモトピアノCMはいつから?なぜ何年も?財津一郎は社長?現在画像や経歴も!



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by misaochan3x7 | 2018-08-10 22:37 | まんが道(みち) | Comments(0)

【ボクが森脇 瑶一を名乗っていた頃③】

 1990年。ボクは32歳になっていた。
 この年の春、ボクは、大学を卒業して新卒で入社した都内のプロラボ(プロフェッショナル・カラー・ラボラトリー。プロカメラマン用のカラー現像・プリントショップだ)に9年務めたあと、都内にある一部上場といわれる大手の印刷会社に転職したのだが、転職から間もないこの時期、ボクは三度(みたび)漫画原作に挑んでいる。
 今度は、「週刊少年サンデー」である。
 その動機は、いまとなっては、もう思い出せない。
 そもそも、この稿を起こすまで、過去の自分がやったこのアプローチについての記憶は、ほとんど失われていたのだった。

 177.png【募集告知】

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 177.png【1次審査発表結果】
 応募総数877編。1次審査に残った応募者の中に「森脇 瑶一」の名前が見える。

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 177.png【2次審査発表結果】
 続いて2次審査。そこに残った50編の中にボクの名前はあった。

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 177.png【最終審査発表結果】
 結局、「週刊少年サンデー」では、1次審査、2次審査、最終審査と、3度のふるい落としを受けたことになる。
 そして、最終審査では、ボクはかすりもしなかった。

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 前作2編(週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン)では、ともに美少女キャラによるアクション物を描いたが、そればかりでは芸がないと思ったのか、「こわしやジョー」という新キャラを使って作品を書いている。
 ストーリーなどすっかり忘れてしまった。
 それにしても、ジョーはいったい何をこわしたのか?

 この応募のことが記憶にないのは、結局、賞金をもらえなかったことに尽きる。
 思い出を刻印するきっかけとは、やっぱり金なのだ。

 こうして、ボクの「森脇 瑶一の時代」は、静かに終わりを告げたのである。

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by misaochan3x7 | 2018-07-28 16:25 | まんが道(みち) | Comments(0)

【ボクが森脇 瑶一を名乗っていた頃②】

 1988年。ボクは30歳になっていた。
 一発逆転をねらって再び漫画原作に挑むことになる。
 今度は、「週刊少年マガジン」だ。

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 117.png前作の武論尊先生の評である「編集者などから適切な批評や指導を受ければ、おもしろい作品を仕上げる力量を感じる。」を糧にしたチャレンジである。
 目指すは、北斗御殿なのだ。
 二匹目のどじょうのテーマは、やっぱり美少女を主人公にしたバトルアクション物である。
 結局、これまた三等賞の「ブロンズ賞」で5万円を得る。
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 この時は、「週刊少年ジャンプ」の時とは違って、ちゃんと「週刊少年マガジン」の編集者(K渕さんといったね)が、ボクの担当者としてついてくれたのである。
 1985年に結婚したボクら夫婦は、文京区の小石川で最初の所帯を持ち、そこで長男をさずかった。結婚すると本籍は好きな場所が選べるので、ボクらは本籍地を小石川にしたのである。
 「週刊少年マガジン」の編集部のある講談社は、同じ文京区内にあり、その気になれば自転車で行ける距離だった。
 仕事から帰ると自転車に乗って、夜、音羽の講談社まで行って、サラリーマンとしての当時の自分の仕事の合間に仕上げた原稿を何度か彼に見てもらっていたのだが、結局、モノにはならなかったのだ。
 悪い予感はあった。
 「週刊少年マガジン」の受賞作の評は、「ストーリーをもっとわかりやすく!」だった。
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 先の武論尊先生の評である「編集者などから適切な批評や指導を受ければ」という言質(げんち)にならえば、「ストーリーをもっとわかりやすく!」という指摘は、その頃のボクにとっては「適切な批評や指導」などとはほど遠く、「うるせーな、ほっとけ!!」と反論する材料にしか聞こえなかったのである。
 それに、担当者のK渕さんはボクより年下の独身者だったので、指導を受ける年上の妻帯者であるボクとしては、少々、というよりも、かなりやりにくい感じもしたのだった。
 彼は、ボクがあまりよく知らない英吉利のパブロックにくわしく、ブリンズリーシュワルツなんてバンドの存在は、彼から教わったっけ。
 ファミレスでの打ち合わせは、いつもおごりで、必ずビールつきだったように記憶する。見てもらう原稿に手ごたえは得られず、最後は、おごりだけを期待しての年上のたかりようだった。

 で、結局、ボクは、誉められてしか動かないし、動けないタイプの人間だったので、漫画原作という、編集者のいうことを聞きながらの「注文仕事」には向かないタイプなのだった。
 この時、編集者は、読者のニーズの先(一歩先よりは、半歩先くらいがちょうどいいみたいですね)を読む有能なマーケッターだということがわかった。
 それにひきかえ、そもそも、当時のボクの視野の中には読者の姿なんてまるでなく、まったくのひとりよがりで原稿を書いているだけで、「読者を喜ばせるために書く」というテーマやミッションなんてものは皆無だったのである。

 しかし、書き手は、それではダメなのだ。

 結局、ボクは自分に負けたのだといえる。
 書くという行為そのものの中に、表現者としてのテーマを見い出せていなかったし、妻子もある身だったので(息子は、まだ乳飲み子だった)、サラリーマンとしての収入を捨ててまで漫画原作の修行に身を捧げる気持ちなど微塵もなく、「あわよくば一発当てて、一気に成功者に!!」という、身勝手な思いしかなかったのだ。
 本当にやりたいことは、頭がシビれるくらい考え抜きながら、自分の中を掘って掘って掘りまくり、結局は「誰かの役に立ちたい」、「誰かによろこんでもらいたい」というテーマを実現するために、それを自分の手で仕事化する以外にないのである。

 いまならそのことは、はっきりとわかるのだが、30年前のボクには、そのことがわからなかったのだ。
 そもそも、自分以外のあらゆる対象に感謝する気持ちや、辛抱する気もちなんてものは、これっぽっちもなかったからね~。
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by misaochan3x7 | 2018-07-28 16:00 | まんが道(みち) | Comments(0)

「週刊少年ジャンプ」創刊50周年。そして、ボクがジャンプに残した小さな爪痕の巻。【ボクが森脇 瑶一を名乗っていた頃①】

 「週刊少年ジャンプ」創刊50周年。
 記念号を買ってみたのだが、心に響く企画は何ひとつなかったよなあ。

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 177.png讀賣新聞(朝刊)2018.7.17(火)
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 巻末の「歴代漫画家コメント集」も何だかお寒い感じで、せいぜい、貝塚ひろしと本宮ひろ志の近況を拾えただけが唯一の救い。
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 結局、このページのこのスペースだけのために280円を払ったことになる。
 巻頭の鳥山明と井上雅彦の対談で、鳥山明が顔を見せないのは、何か深い理由でもあるのだろうか。
 付録の「歴代ジャンプ表紙ギャラリー」でボクが反応したのは、1971年の「荒野の少年イサム」の表紙あたりまでなのだ。
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 1972年からは高校受験生活に入り、その後、浪人、1977年大学入学となる。この間、ジャンプとは無縁の生活。
 だから、スーパーカーブームの「サーキットの狼」とも無縁なり。
 大学のサークル室に転がっていたジャンプで読んだのは、「すすめパイレーツ」「1・2のアッホ!!」「リングにかけろ」くらいか。
 「ドーベルマン刑事」「コブラ」もうっすら記憶にあるのだが。
 「キン肉マン」「ドラゴンボール」とは、完全に無縁の世代。「ONE PIECE」が21年も連載を続けているなんて、ついこの間はじめて知ったくらいなのだ。
 やっぱりボクには、少年ジャンプ300万部突破記念(創刊12年)として1980年につくられたこの記事の方が、仕事も丁寧で資料価値が高いのである。
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【ボクが森脇 瑶一を名乗っていた頃①】


 ところで、ボクがジャンプに残した小さな爪痕の話である。
 1987年、当時、「北斗の拳」で飛ぶ鳥落とす勢いだった武論尊先生のように、漫画原作で一発当てて北斗御殿でもぶっ建ててみたいと思い、ジャンプが企画する漫画原作賞に応募して、「奨励賞」の5万円を得たことである。
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 ペンネームの「森脇 瑶一(もりわき よういち)」は、母親の旧姓と息子の名前の合体なのだ。
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 モチーフは、原作:工藤かずや、作画:池上遼一の美少女サイキックガール漫画「舞」(「週刊少年サンデー」連載1985年~1986年)そのものなのである。
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 受賞後、お茶の水の日仏会館で開催された「ジャンプ漫画セミナー」に招待されたのだが、となりの席にいた男の子のアンケート用紙に、彼のプロフィールが「14歳 北海道」と書かれているのをちら見した時、これはもう勝負にならないなと痛感したことを、いまも強烈に覚えているのである。
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 当時、ボクは29歳。いまから思うと気絶するくらい若く、1歳の息子の若いパパさんなのだが、14歳の少年から見たら、りっぱなおっさんなのだ。
 漫画は、10代の初期衝動をどこまで維持できるかにかかっているので、実は、20代からのスタートではもう遅く、ましてや29歳は完全にアウトなのだった。
 結局、賞金の5万円を何に使ったのかは忘れてしまった。
 一発逆転のチャンスメイクを目論んだサラリーマンの若いパパの野望は、結局、一過性のこづかいかせぎに終わってしまったのである。つまり、あぶく銭なのだった。


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by misaochan3x7 | 2018-07-28 11:58 | まんが道(みち) | Comments(0)

今年の夏休みの課題図書決定!!

 今年の夏休みの課題図書は、梶原一騎の未読のこの2つの作品に決定だ。
 まずは、「まんだらけ」でこの作品を買うところから始めなければね。
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by misaochan3x7 | 2018-07-16 22:49 | まんが道(みち) | Comments(0)

「ドカベン」最終回とわたくし。

【2018年6月28日(木)】

 108.pngといふわけで、「ドカベン」最終回。

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 そこで、この日の昼休み、職場近くのコンビニエンスストアに向かい、最終回の載った「週刊少年チャンピオン」を購入。
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 実は、この号の前の、最終回の告知号も買ったのである。
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 創刊当時(1969年)は、隔週刊だった「週刊少年チャンピオン」。
 前年(1968年)に創刊した「週刊少年ジャンプ」を創刊号から買えなかった悔しさで、「チャンピオン」は母親にこづかいをもらいながら177.png創刊号から買い始め、しばらく購読が続いた小6(11歳)のボクだったのさ。
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 んがしかし、19歳で上京してからしばらくして実家に戻ると、押し入れにしまってあったはずの創刊間もない10数冊の「チャンピオン」は、いつのまにか消えていたのだった
 ま、べつに惜しくはないのだが。

 それにしても、お金を出して「週刊少年チャンピオン」を買ったのは、1969年以来ではなかろうか。
 その間、今日(こんにち)まで、「チャンピオン」を読む機会は何度かあったのだが、その読み方というのは、高校生の頃は、同級生が教室に持ち込んで置きっ放しにしていた号を読み、上京してからは、資源ごみで棄ててあった号や、電車の網棚に置き忘れた号や、むしろ積極的に、都内で載った電車のホームのごみ箱から拾った号などを読むなどして大人になったボクなのであ~る。

 さて、この作品の最終回そのものに特に関心があったわけではない。
 むしろ、最大の関心事は、46年間の長期連載の最後にあたり、作者の水島新司先生から寄せられた寄稿文の内容がどのようなものかという、この1点に集中しているのである。
 作者の顔写真と心のこもった手書きの文章が、少なくとも2ページ構成で寄せたれていたのならいざ知らず、その期待もむなしく、かくもおざなりの1ページとなりぬ。

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 それでいいのか、秋田書店。それでいいのか、水島新司先生。
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by misaochan3x7 | 2018-07-04 22:40 | まんが道(みち) | Comments(0)

「ふきだまり」(川崎のぼる著)とわたくし。

 最近は、新刊を中心に読み本を購入し、毎朝の通勤時間中に充実した時間を過ごしていたのだが、いよいよ読む物がなくなってしまったのである。
 仕事帰りに地元の書店の棚を覗いてみても、ピンとくる本がない。

 困った挙げ句、部屋中にある本のことをあれこれ思い巡らしていたら、未読のこの本のことを思いだしたのさ。
 そうだよ、川崎のぼるの「ふきだまり」なのさ。

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 地元の雑貨と古本を商うジャンクな店で10年以上前に(たぶん)買ってそのままにしていた本なのだ。表紙に150円の値札が貼ってある。
 けっこうレアな本が手に入ったという満足感に浸りながら、いつかは読もうと思って取っておいたその日が、ついに来たというわけなのである。
 あらすじを書くのがおっくうだし苦手なので、それは、このスレッドに譲る。

 ■【うちの本棚】第百三十三回 ふきだまり/川崎のぼる 

 雑誌連載は、174.png「週刊少年チャンピオン」で、短期連載(1970年3月~6月)だったようである。

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 冒頭、黒澤明の「天国と地獄」を想起させるシーンでのスタートだ。登場人物の設定もよく似ている。
 それに、同じ時期に「週刊少年ジャンプ」に連載中だった174.png「男の条件」(梶原一騎原作、川崎のぼる作画)とカブるようなシーンも垣間見られたほか、川崎のオリジナルスパイアクション作品「タイガー66」に出て来たキャラも登場するなどして、なかなかおもしろく読ませてもらったのである。

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 本を開けてはじめて気づいたのだが、「ある浪人の死」、「悪魔博士」という短編2作品がボーナストラックとして付いていたのもお得な編集なり。

 余談だが、you tubeに、こんな意味不明の無音の動画がアップされていたよ。

 ■ふきだまり 川崎のぼる 1976年
 


 今回、あらためて気づいたのは、原作付きの作品(「巨人の星」、「長男の時代」etc.)であれ、オリジナル作品(「いなかっぺ大将」、「大平原児」etc.)であれ、この作家は「人情ドラマ」の作家であり、作品の根底に流れている「人情」という情感は、川崎の絵柄そのものから発露していたという発見なのである。
 あらゆる作品の底に、血の通ったどこかほのぼのと「ぬくい」ものを感じるのだ。
 なんだか、もう一度、川崎のぼるのいろんな作品を読んでみたくなってきたな。

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by misaochan3x7 | 2018-06-28 00:15 | まんが道(みち) | Comments(0)

「ドカベン」最終回にまつわる報道合戦の行く末とわたくし。

 「ドカベン」がまだ連載を続けていたことに、まず驚く。
 そして、作者の水島新司が79歳のおじいちゃんになってしまったことに、もっと驚く。
 エーーーっつ!!

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 それにしても、「ドカベン」最終回にまつわる報道合戦は、ボクが目にした2紙の中では、日経新聞(朝刊)に軍配が上がる。

 177.png日経新聞(朝刊)2018.6.21(木)
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 177.png讀賣新聞(朝刊)2018.6.21(木)
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 「最終回は巻頭カラーを含めて計40ページの本編に加え、作品を振り返る水島さんの寄稿や年表などの記事を掲載する。」という日経新聞(朝刊)の記述がなければ、ボクはこの号を買ってみたいなとは思わなかったからだ。
あぶね~。

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 讀賣新聞(朝刊)しか見ていなかったらと思うと冷や汗が出るよ。
 連載開始の1972年4月、ボクは中3で14歳だった。
 46年が経ち、14歳の少年は、文字どおりおじいちゃん(14+46=60)になってしまったのである。
 夢か!? 現(うつつ)か!?

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by misaochan3x7 | 2018-06-26 23:38 | まんが道(みち) | Comments(0)